「私、命を救っていただいたタヌキです」「え? あの時の?」「はい、その節は助けていただきありがとうございました」なんて会話で始まる古典落語『狸』。昔、幼稚園児の前でやったら「狸はしゃべんないよ!」と言われた。
「狸がそう思ってるかもしれないことを想像してしゃべってるんだよ」「そう思ってないかもしれないじゃん!」。言われてみれば、動物が恩に感じてそれを返しにくるなんて人間に都合のいい勝手な想像だ。
先日、一昨年の3冠牝馬リバティアイランドがけがのため安楽死処分となった。ただただ悲しい。競馬ファンの哀悼のコメントには「競走馬のさだめ」を説くものだったり、なかにはリバティアイランドの胸の内を代弁したりするような内容のものもあった。
ただ、「私のことを忘れないで」とか「私も覚悟はできている」という表現にはどこか違和感を覚える。「安楽死」という理不尽な視点が欠けた、うっとりした感傷的なその「自分の思い」を聞いたら、彼女は一体どう思うだろうか。
落語『馬の田楽』は、つないでいた愛馬がどこかに行ってしまい、それを馬子(馬を引く者)が捜し回るだけの噺。たっぷり愛情を注いでいるはずの馬に逃げられ途方に暮れる馬子、馬は見つからないまま落語は終わる。
馬はなにを思いながら主人の元を離れていったのか。愛する主人を捜しさまよっているのか、はたまた自由を手に入れ喜んでいるのか。あえて正解を示さないところが落語らしい。仮に馬にも人間同様の感情があるとするならば、その心のうちは当人(馬)にしかわからない。わが身の運命を嘆いてるかもしれないし、本当に「忘れないで」と思ってるかもしれない。
人間の営み(競馬を含む)のために動物に死を強いるのは悲しいかな避けられないことだ。その時は彼らの思いを人間が都合のいいように想像したりせず、ただひたすらに彼らの死を悼み感謝するのが一番の供養だと思う。合掌。
「狸がそう思ってるかもしれないことを想像してしゃべってるんだよ」「そう思ってないかもしれないじゃん!」。言われてみれば、動物が恩に感じてそれを返しにくるなんて人間に都合のいい勝手な想像だ。
先日、一昨年の3冠牝馬リバティアイランドがけがのため安楽死処分となった。ただただ悲しい。競馬ファンの哀悼のコメントには「競走馬のさだめ」を説くものだったり、なかにはリバティアイランドの胸の内を代弁したりするような内容のものもあった。
ただ、「私のことを忘れないで」とか「私も覚悟はできている」という表現にはどこか違和感を覚える。「安楽死」という理不尽な視点が欠けた、うっとりした感傷的なその「自分の思い」を聞いたら、彼女は一体どう思うだろうか。
落語『馬の田楽』は、つないでいた愛馬がどこかに行ってしまい、それを馬子(馬を引く者)が捜し回るだけの噺。たっぷり愛情を注いでいるはずの馬に逃げられ途方に暮れる馬子、馬は見つからないまま落語は終わる。
馬はなにを思いながら主人の元を離れていったのか。愛する主人を捜しさまよっているのか、はたまた自由を手に入れ喜んでいるのか。あえて正解を示さないところが落語らしい。仮に馬にも人間同様の感情があるとするならば、その心のうちは当人(馬)にしかわからない。わが身の運命を嘆いてるかもしれないし、本当に「忘れないで」と思ってるかもしれない。
人間の営み(競馬を含む)のために動物に死を強いるのは悲しいかな避けられないことだ。その時は彼らの思いを人間が都合のいいように想像したりせず、ただひたすらに彼らの死を悼み感謝するのが一番の供養だと思う。合掌。