【二つ目グルメ】「職人スイッチ」 昔昔亭昇

自分の技能によってものを作ることを生業とする人を職人と呼ぶそうです。時に愛する家族のため、時にまだ見ぬ誰かの笑顔のため、時に他の誰でもない自分のためだけに無数の時間を注ぎ、こだわりの逸品を作り上げる! それが職人魂!

漢は時として職人スイッチが入ることがあります。しかもそれはいつも突然訪れる。今日はそんなお話。

その日、閉店間際のスーパーでは、ネクタイを少し緩めたサラリーマンと、卵を買い込んだおそらく主婦の方と、太っちょ落語家の3人がサバンナのハイエナよろしく惣菜(そうざい)コーナーをウロウロしておりました。気だるそうな若者が半額シールを貼りにくるのを今か今かと待ちわびているのです。

太っちょ落語家のお目当ては、400円のハンバーグ弁当。本当は、500円の幕の内弁当の方がおいしいことは知っています。しかし、お相手が主婦の方では勝ち目はない。あの人たちは裏から店員さんが現れた瞬間に幕の内弁当を持ち上げ、自分の持っている弁当に直接シールを貼ってもらうことができる猛者! このような人に勝負を挑むのは、コンニャク屋が旅僧と問答をするような愚行! あくまでも太っちょ落語家のお目当ては、ハンバーグ弁当!

首尾は上々。うれしそうにハンバーグ弁当をカゴに入れた太っちょ落語家は、生肉コーナーを通りレジへ向かっておりました。

目に入ったのは7割引になった牛すじ。その向かいには仕入数を間違えたのか、カレーのルーが格安で売られておりました。

明日は休み。安くなった牛すじとカレーのルー。

「カチッ」

どこからともなく聞こえたスイッチの音。職人スイッチが入ったのです。

翌朝、厳しいまなざしでキッチンに立つ僕の姿がありました。

まずは、牛すじの下ごしらえからです。

①鍋に牛すじと、牛すじが完全に浸かるほどのお湯を入れて、沸騰してから1分半ほど煮ます。

②牛すじをザルにあげて表面の汚れを流水で落とします。

③①と②の工程をもう一度行います。

④鍋に牛すじとお湯を入れてもう一度火にかけます。沸騰したら中火にしてアクを取りながら15分ほど煮込みます。

⑤牛すじをザルに上げて流水で洗い流します。食べやすい大きさに切ります。

これで牛すじの下ごしらえは完了です。

さぁ、ここらからカレーを作ります。無論、大量に作った方がおいしくできるので10人前を作っていきます。

大量に作った方がおいしくなるというのはどこかで聞いたことがあるなぁという程度の知識ですが、職人と化した僕にはその情報が確かなものかどうかなんて関係ありません。

「大きな鍋でたくさん作りたい」これこそが職人魂!

カレーの命は、玉ねぎをいかにおいしく炒めることができるかです。みじん切りにした玉ねぎを鍋で炒めます。この工程で玉ねぎを焦がすわけにはいきません。ここでどれほど丁寧に玉ねぎを炒めることができるかで完成したカレーのクオリティーがまったく違うものになります…というのをテレビで見た気がするのです。

長時間玉ねぎを炒めるというなんともそれっぽい工程。

これこそが職人魂を満たすのです!

玉ねぎを炒めること約30分。厨房(ちゅうぼう)は熱を帯びて額には汗がにじみます。右手も少し疲れてきたころ、玉ねぎがペースト状になってきたので、水、にんじん、ジャガイモ、牛すじを鍋に加えます。

ここからが本当にやりたかった工程。長時間ひたすら煮込む!

もちろん放置をするわけではありません。スマホのアラームを15分ごとに設定し、その都度アクを取りながら丁寧に煮込んでいきます。

アクを取り続けること7時間。

苦行。まさに苦行。

しかし、まだ終わりではない。

野菜の角が丸くなったところで、刻んだカレールーを鍋に加えます。

ここからはカレールーをなじませる工程です。焦げないよう弱火に掛け、ひたすら混ぜていきます。

もちろん、その日は何も食べておりませんでした。もはや空腹感はありません。頰はコケ、目は虚空を捉えておりました。

そんな中、鍋から漂うカレーの匂い。あふれ出す唾液。爆発する食欲! 速度を上げる血液が生きるいとおしさを教えてくれます!

総制作時間8時間のカレーが完成! 少し硬めのご飯にカレーをかける。丸みを帯びた野菜とトロトロの牛すじ! 付け合わせは福神漬けとらっきょう! これ以外は認めない!

この瞬間を待っていたのだ! 今日1日の苦労が、久々に目覚めた職人魂が! この1口によって完了する!!

さぁ、躊躇(ちゅうちょ)することはない。トロトロの牛すじとご飯を口いっぱいにかき込むのだ!

いただきまーーーす!!!!!!

うん。あの…おいしいですよ? おいしいけど、なんというか。8時間頑張った割にというか…。うん。いやっ美味しんですよ。でも、なんか思ったほどっていうかですね。職人魂? えっなんすかそれ?

あれ? ちょっと前に鯛めし作ったときも同じ思いをしたような。

まぁなんというか…。プロってすごいっすね(笑)

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