2022年9月29日(木)「J亭スピンオフ 桃月庵白酒・柳家三三 大手町二人会」@日経ホール
演目は以下のとおり
春風亭㐂いち『辰巳の辻占』
柳家三三『お血脈』
桃月庵白酒『替り目』
~仲入り~
桃月庵白酒『つる』
柳家三三『高砂や』
㐂いちが演じた『辰巳の辻占』のサゲは「生まれ変わったんだから、初めまして」。これは三遊亭兼好の型。「兼好に教わった噺だ」というのは随所の台詞回しから如実に表われている。このネタに限らず、兼好から噺を教わった若手は、兼好の独得の台詞回しのトーンがそのまま出てくるので、すぐにわかる。先日、兼好に聞いたところ、そういう「独特なトーンの台詞回し」に関して兼好自身は「教わったままやってる」つもりだったりするらしいから面白い。
三三は町に賑わいが戻ってきたという話から浅草の観音様に絡めて仏教の話となり、花祭りからバレンタインデー、ハロウィンと回り道をしながら「仏様が教えを日本に広めようと阿弥陀に持ちかける」という『お血脈』冒頭へスムーズに入り、どこかトボケた語り口で独自のクスグリを交え、度々脱線しながら語り進めていく三三からは、若い頃にはなかった“フラ”を感じる。こういう肩の力が抜けた地噺が似合うのが今の三三の魅力だ。東京駅から長野へと新幹線に乗り込んだ石川五右衛門は長野から北陸新幹線へと延びているのを知らず、崎陽軒のシウマイと発泡酒を買いこんで席について眠っている間に終点の金沢に着いてしまったので善光寺に着いた時には真っ暗で……というどうでもいいくだりが僕は好きだ。
志ん生十八番のネタは“志ん生の呪縛”から逃れるのが困難だ。とりわけ『火焔太鼓』のように「志ん生が作った噺」と言えるくらいオリジナリティの塊になっているネタは、どうしても“志ん生の踏襲”になってしまいがち。だが白酒は、そんな“志ん生の呪縛”から噺を解き放って自由に羽ばたかせる、稀有な演者だ。白酒の『火焔太鼓』は完全に“志ん生の呪縛”から解き放たれている。そして『替り目』もまた同じ。志ん生は演題の由来であるサゲまでやらず「元帳を見られた」で終えるのが常で、後進の多くはそれに倣って途中まで、しかもほとんど志ん生のまんまだったりする。だが白酒の『替り目』は“志ん生の呪縛”から自由だ。最大の理由は、白酒が五街道雲助の弟子で、金原亭の演者だということがあるだろう。
白酒の『替り目』の冒頭で「♪一でなし、二でなし……」という歌が「キリがない」のは志ん生で、雲助もそれを踏襲しているが、そこで歌を変えて「♪さらばラバウルよ、またくるま~で~は」「ヘイ」と車夫が来るのは、先代馬生が冒頭で端唄の『梅にも春』を口ずさんで「若水汲みか車井戸」の「車」で声が途切れて「へい、お待ち」と車夫が来る演出の変形だ。端唄じゃなくて『ラバウル小唄』というセンスが白酒の素敵なところだ。
「元帳を見られた」でサゲずに後半のうどん屋に燗をさせるくだりを演じてサゲまで完演するのも馬生/雲助ゆずり。うどん屋に面倒くさい絡み方をする酔っぱらいの原点も馬生(燗のつけ方で“女の人肌”にこだわるのも馬生由来)で、白酒はそれを大きく膨らませて爆笑を呼んでいる。うどん屋を帰した後に義太夫流しが唐突に現われるのは雲助の「新内流しの男女が来る」演出の、変形と言うよりはパロディに近い。もう飲めないと決めつける女房への「お前は俺か?」という反論や「北風と太陽」の例え話も楽しい。最高なのが「大根と玉子とコンニャクでしょ?」「どうして決めつけるわけ? いつもそうでも今日はハンペン食べたいかもしれないでしょ? もしも『今日はハンペンが食べたかったのに』って思いながら寝ちゃってそのまま死んじゃったら……」「じゃあ何が欲しいの?」「大根と玉子とコンニャク」のくだり。元帳を見られて明日からやりにくいと言いつつ「いつもどおり酒に逃げちゃお」と後半に繋ぐ楽しさも白酒らしい。
ありふれた前座噺を格別に面白く出来る白酒の“落語の巧さ”を端的に表わしている演目のひとつが『つる』だ。「何でも知ってるって高慢なツラしてる隠居に訊けばいいだろうってことになったんですけど、誰も行きたがらねえんですよ、嫌われ者ですからね。仕方ねえからジャンケンで決まったんですけどね、行ったら行ったでイヤな野郎でしょ、ご隠居って野郎は。教えてくれえんじゃねえかって言ったら、単純な野郎だからちょいとおだてりゃ鼻の下のばして教えるんじゃねえかってことで来たんですよ」と言うくだり、嘘くさい“つるの由来”を話してみたものの照れ笑いをして言葉を濁す隠居、よそで言うなよと言われた八五郎が「どんなことあっても話しませんよ、口は堅えですから。背中をナタで割られてレモン絞られてもしゃべりません」と言い捨てて隠居の家を出た途端に「どこでしゃべってやろうかな」とニコニコする八五郎等々、全編白酒ならではの可笑しさに満ちている。
マクラの延長のようなトーンで話す地噺の楽しさを『お血脈』で示した三三のトリネタは、柳家の本寸法の“落語の巧さ”を存分に発揮する『高砂や』。隠居のところに何かを聞きに来たのに何を聞きに来たのか忘れたという八五郎が、あれこれ無駄話をしてから思い出して伊勢屋の若旦那の仲人を頼まれた件を切り出し、どうして自分がそんな大役を任されたのかという経緯を隠居に話して相談に及ぶと、隠居は自分の体験談を話しつつ着物の面倒を見てやったり色々と指南してやって、最終的に「ご祝儀として謡曲『高砂』を披露してあげなさい」ということになる……という会話が、三三の場合は実に長い。しかも、その会話はとりたてて面白い話をしているわけではない。なのに、とても楽しく聞ける。それは三三の師匠、小三治が言っていた「市井の人々が何気なく会話をしているのを聞いて共感し、クスッと笑うのが落語」という“真髄”を体現していると言っていい。三三は「お客さんが高座の上で会話をしている人たちの脇でそれを目の当たりにしているような気分になってもらう」ことを目指して落語をやっていると言っていたことがあるが、まさにそのとおり。そんな中で、八五郎がやたらとハムカツにこだわるバカバカしさは三三らしい遊び心。『高砂』を教える段になるとあれこれ独自のクスグリが入ってきて楽しく、ここでもまた「無駄話を聞いている楽しさ」を味わわせてくれる。婚礼の席で祝儀をつけて得意になっていた八五郎が窮地に陥っていく様子のリアルさも三三ならでは。五代目小さんの「何でもない噺の面白さ」の代表とも言える『高砂や』の魅力を、三三は自分らしいやり方で見事に継承している。